昭和四十四年二月二日 特別奉修委員


 「松の恵は真実の理」今朝のご理解を頂いておりますとおかげはもう次々とつながって居るのだ。おかげが切れると言うことはない。もしおかげが、まあわかりやすく言うならお金ならお金が切れると言うことがあってはならない。
 もうこれでいよいよおしまいと思ったら、もうあとは、おかげを頂いておったと言うように続かなければならない。
例えば家のおかげを頂いたならそのそこにお店をするならその資金が用意してあるだろうし、又そのお店をするなら、お得意さんがちゃんと用意してある様に、もうおかげと言うものはつながっておるのだと。
とりわけ神様のお許しを頂いてこうさして頂く事の中には途中で切れることがあってはならない。
それはお互いの心の中に裏と表の心があるからぢゃ。
陰日向の心があるからぢゃと言うことでしたね。
陰と日向の心があると言うことですね。
陰と日向の心と言う様なものが、信心に何事も信心になれよとか成り行きを大事にしていけと言うことが本気でなされておればその陰やら日向やら裏やら表やらあってよいはづはないのですからね。
成り行きを大事にして行くと言うなれば、とりわけ今日はそこのところに焦点をおいてと言うことでしたが、先程あの佐田さんのところの若奥さんの方が以前に「松の恵は真実の理」と言うねあのねこれはもう私がこれはマジナイの様に「財布の中に入れておきなさいよ」「絶対お金に不自由することは無いよ」と私が言うて書いてやってるのですよ。
だから金庫の中にもちゃんと書いて入れておきなさいよ、だから金庫の中に入れておるんですよ。
これにお金を入れてかへるちゃ。
「松の恵みは真実の理」ねこれは「松の恵は継承真実なり」とか松の恵の、これはもうお金を不自由しないマジナイこれを入れとくといいと言うて私が何人かの人に差し上げたのですけれどね。
マジナイなどがお道の信心にあろうはづはないですけれどもほんとに、あのね、うちのおかげはもう金のことだけではないですよ、もう本当に神様のおかげを頂いておるんだと頂いて居るんだと思い込ませて頂いたらと言うことなんです。
昔からうちにあった財産であるとかね、私が働いたからとか、今週やりようがよかったから、こげしかもうかったとかと言う間は必ず切れる。
だから私は今朝の御理解の中にいわゆる何事にも信心になれよでしたね。
いわゆる陰と日向の心を持つなよと言うような信心が出来ればおかげと言うものはず-とつながっていけるはづだと。
今朝からその佐田さんところのその若奥さんが頂いておるところの「松の恵は真実の理」と言うことをそう言う風に御理解頂いておったが、それをもう一段深めねばならんと言うことを今朝から頂いたと思うのです。
このことを、このことを深めねばならないと言うことが今朝の御理解だった。
たとえばねうちのおかげはもう神様のおかげ、神様のおかげを頂かなければ頂けるもんぢゃない。
一切か神様のおかげとわからせて頂くと言うだけで不自由はしないけれどももう一丁深めるとです、そう思い込むだけではなくてその信心の行と言うのが陰日向のない心と言う信心の行にもう一丁それにともなうておらなければだめだ。
筋金の通っとかねばいけない。
どげん考えたっちゃお父さんもうおかげ頂いとつとですばい。
うちさんは絶対神様のおかげだから無駄なことにはお金ば使っちゃいけんばいと言うとる、言うとるところの言えることももうお金に不自由しないことのおかげ頂けることです。
絶対に、ところが神様のおかげと口で言いながら神様から頂いておる様なものでない様な頂き方をする様なところから金に不自由をしなさらなければならない様になって来るのです。
だから、それをもう一丁深めねばならんと言うのがいわゆる今朝の御理解だと私は今、ただ今御祈念中にそれを感じさせて頂いたのです。
ね、そして今御祈念の前にたしか上野さんがお届けをされます様にその「ありがたいですわね、遠隔に居りますと中々御理解頂けませんからお夢の中にず-と御理解頂くんですよ。
」まあそのおばさんなんかこの間あの和子さん達の場合もそうですけどね、もうほんとにあのかんでふくめるようにこうおかげを下さる。
そのお夢をしょちしてきておるからお夢のお届けがあったんですけれどね、その中の一つにその休んでおる枕元がみんなこのお水で一杯だけれどもそれが泥水だと言うことだから私申しました。
たとえばほんなら小西といいます家に園子さんが信心を持ってお嫁入りをさしていただいた。
周囲はなるほど久保山やら高松やらで固めておりますけれども、肝心要の小西には信心がないんだとね。
あれだけののれんを持ったお店ですからまあある意味合いでは日本一のお寿司屋さんですよね。
店は例えば小さかっても天皇陛下にでも毎年お寿司をにぎってあげられると言うだけの過去を持ったお寿司屋さんなんです。
ですからそういう有名なお店だからお金がもうかることは間違い無いのですけれども、うちにはこう言うまれんがおるからこう言う行き方がいいからやりかたがいいからうちは金が残って行きよるんだと皆が思っているわけ。
それを園子さんそれはねお恵みは水とおっしゃるから水のお恵みを頂きよるだけれども、それはねもうほんとに泥水の様なもんだと、それを清めるのは信心のある園子さんあんたの役目だと言うことを頂いて居る。
その泥水を清める為の清める信心をしなければいけない。
例えば金気の強いお水なんかはねそのまま使えないからろ過します。
砂やら泥やら泥やら泥はいけませんね、そのいろんなものを入れたりしてね、砂やら消炭を入れたりしてから金気を抜いて出て来るお水はもう真水と同じような水が出て来る様に、どういう泥水であっても一人がそれを浄化しょうと言う信心をさせてもらえば必ず立派だね。
それがどう言うことかと言うと私は神様のおかげね。
夕べの御理解の中にも私がどう言う今日はお話しを皆にさせてもらおうかと。
「松に鶴」松というのはまあ九州で信心させて頂くものならばこの松の信心を忘れてはならんのだと私共先達先輩のいわゆるその松の信心があってこそ私共今日の信心があるのだと。
ですからその松のお取り次ぎを頂いてから頂いて居るおかげだからと真実思えれる様になってから生まれた理が本当の理でありおかげであると言うことなのである。
うちのやりようがよかけんで自分が一生懸命努力するけんでと言う間は駄目。
神様からただお手伝いしてもらいよるようなこっちゃつまらん。
もう全部が神様の働きによるものであってです。
そのおじゃまにならんような働きをただ私共がさせて頂いておるだけだと言う行き方なんです。
いうならば神様のお働きと言うものがです。
そのままこのおかげに現れておるんだと言う思い込みが出来ると言うことが継承真実の理なんですね。
いわゆる松の恵は真実の理なんですだとわからせて頂いたからです。
ねだから金庫を開けるたんびに「ああそういただかなきゃあ、いただかなきゃあ」と思うけん、私が金に不自由しないマジナイだと言う意味がわかるでしょうがね。
昨夜もう私がお説教を終わらせて頂くころ、あの佐賀の富永さんが参って見えた。
昨日は唐津に出張だったから帰りにこちらにお参りになったわけなんです。
ほいで私下っておりましたから、こうお土産を持って見えられました。
「先生今日は小倉にまいりました。
小倉の名物の名物松露饅頭ですと言うて松露饅頭のお供えがありました。
あら今松の恵と言うことについて頂いたのだけれどね、松の露と書いてある。
松露饅頭と言うのはね露は恵ですね。
ああつながっておるなと。
今野口さんがその富永先生もう直接帰られるかと思ったら一ぺん久留米に帰られていかれてそれから帰られた。
又あちらにも一折りその松露饅頭を買うて来てやったそうです。
ですからお茶でも頂きながらです、今日の御理解はこれぢゃったと言うてそのまま感動して帰られたとこう言うのです。
けれどもね私共は知るや知らずやわからんなりにそう言う働きの中にあると言うこと、そして松村先生が驚かれるところにああ今日の御理解はそうでしたかと言って感激されたと言うことです。
ですからそういう働きのあるだけでは駄目だとね。
そういう働きの中にあるのだからそれを真実そうだと思い込ませてもらわなければ駄目だと言うことね、同時にならこの御理解をもう一段深めなければいけないと。
恵美子さんの頂かれたのが今朝の御理解、そういう思い込みと同じに陰と日向の無い信心ね、いわゆるいわゆる何事も信心になれよと言うその信心の筋金がもう一ちょそれに深められたらまあいわば鬼に金棒と言うこちになるのでございますね。
そして皆さんあの御希望者には書いてあげますけどね。
あれを私は必ず金ば入れる袋にはみんな書いとる。
それを私しゃそれを忘れると思わんです。
思わんけども見れば見るたんびに思いが深まる。
だからこちらの小出しをする金の方にも、もう久保山先生が昔からはってやっちゃった袋がありますもん、それが破れると私はそれをはりはりしてちゃんとそれの袋に書いてやる。
「松の恵は真実のり」と言うことそれを思い込ませて頂けると言うことね。
神様のおかげと言うこと私は今日恵美子さんのそれをもう一段深めねばならないと言われたその深めることが今朝の御理解でありそれを私共がほんとに頂かせて頂く、ほんとに会楽の者はこれさえ財布の中に入れときゃあ自分の心の中へ心の財布の中に入れてさへおきゃあもうほんとに絶対お金にども不自由するようなことのあっちゃあならない。
もしそれが切れるなら、おかげは次から次につながっておると言われるのにそれが切れるならこりゃあもう切らした方が間違いね。
如何に陰と日向の信心をしよるかと言うことを悟らせてもらうて御かげを受けていかなければなりませんですね。
どうぞ